サムシンググッド庵

社会・時事・経済・政治・法律・メディア・教育・テクノロジー・アニメ・昭和時代・和菓子・洋菓子・ライフスタイル・クレジットカード・・・の話題

花押を押印と認めない最高裁判決について

花押を押印と認めない最高裁判決について報道されています。ニュースをリンクするとすぐに消えてしまうことに最近気がついたのですが、一応、貼っておきます:

www.jiji.com

このことについて Ryusei (mandel59)さんがブログで話題にされています:

mandel59.hateblo.jp

報道されたばかりですが、判決文が、ウェブにもうでているみたいですね:

裁判所 | 裁判例情報:検索結果詳細画面

さすが、最高裁(だからなのでしょうか)。他の裁判所もウェブ掲載のこの迅速さを見習って欲しいです。(ウェブにでるまで一ヶ月かかるとか、あり得ないですよね。)

Ryusei (mandel59)さんの言われるとおり、よくわからない、というか、

「我が国において,印章による押印に代えて花押を書くことによって文書を完成させるという慣行ないし法意識が存するものとは認め難い。」

という部分が、理由ではなくて、むしろ結論として提示されていて、その結論ありきの判断ですよね。

好意的に見れば、我が国の「押印」の文化(と法律実務)を簡単には変更できない、という見解を示したものとも思えますが、

福岡高裁那覇支部による:

「花押は,文書の作成の真正を担保する役割を担い,印章としての役割も認められており,花押を用いることによって遺言者の同一性及び真意の確保が妨げられるとはいえない。そのような花押の一般的な役割に,a家及びAによる花押の使用状況や本件遺言書におけるAの花押の形状等を合わせ考えると,Aによる花押をもって押印として足りると解したとしても,本件遺言書におけるAの真意の確保に欠けるとはいえない。したがって,本件遺言書におけるAの花押は,民法968条1項の押印の要件を満たす。」

という判断のほうが、むしろ、格調高い裁判所の判断のように思えて、なりません。

最高裁の判断のしかたは、あたかも、

福岡高裁那覇支部のいう「a家及びAによる花押の使用状況や本件遺言書におけるAの花押の形状等を合わせ考えると,Aによる花押をもって押印として足りると解したとしても,本件遺言書におけるAの真意の確保に欠けるとはいえない」なんてことは、関係ない、

条文に押印でないとダメと書いてあるから、とにかくダメである(安い印鑑でも押しておけばよかったのに)、

と、言っているように思えます。裁判所と言うよりも、役所の窓口みたいですね。

もちろん、花押によっては認められるものもある、ということになると、この場合のサインは花押に該当する、と主張する人が、日本全国からあふれでてきて、裁判所の業務が大変なことになるのはわかりますが、

それでも、社会の構成員が、主体的な個人である、という意識がだんだんと浸透してきた時代に、技術の進歩によって印影の複製が困難ではなくなってきた時代に、「我が国において,印章による押印」「によって文書を完成させるという慣行ないし法意識が存する」のだからそれ以外を認めないとしておいてよいのかどうかを、勇気を持って考え直してみて欲しかったと思います。